2008年10月02日

厨学生日記。


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 田中ロミオの『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』を読んで、「ズッギューン!」となったので、本日の予定を変更してお届けしております。

 『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』は、エロゲのライターとしてカリスマ的人気を誇る、田中ロミオ氏の新作小説である。昔イタい妄想に浸った暮らしを送り、現在は高校デビューしてキレイな身体となった主人公が、ある日夜の学校で、魔法使いの格好をした女生徒と出会ってどーしたこーしたという内容で、いわゆる「青春ラブコメ」というジャンルに分類されよう。

 アニメ化もされて一大ブームを巻き起こした『涼宮ハルヒの憂鬱』や、同じく今度アニメ化されるという『電波的な彼女』、ヒット作『十二国記』に先だって発表されたその外伝的作品『魔性の子』と、同じような題材を扱った作品はそれこそ山ほど有るが、田中ロミオのこの作品は、それよりもっと赤裸々で、容赦が無くて、それゆえに途方もなくやさしい作品だった。

 よく「子供の頃に帰りたい」というオヤジがいるが、俺にはまったく理解できない。あんな時代、絶対に戻りたくなんかない。特に高校時代以前。どれだけ頼まれても、どんだけ金もらってもお断りだ。虐められていたとかそう言うわけではない。ただただ「恐ろしいから」だ。

 学生時代は「闘争」だ。軍勢同士が繰り広げる「戦争」ではない。スポーツマンシップに乗っ取って行われる、「競争」などではありはしない。少しでも他人より上の場所に、安全な場所に座ろうとして繰り広げられる、個人単位の血みどろの「闘争」。それが学生時代だ。

 その闘いに信義はない。ルールもない。実際にはあるのだが、あまりに幼く愚かな頭脳には、その存在は理解できないのだ。

 そして、その幼く愚かな脳で、精一杯戦略を練る。「美貌」。「交渉」。「運動力」。「愛嬌」。「知識」。「暴力」。「親」。「財産」。己の持つカードの全てをつぎ込んで、バトルは24時間365日、とどまることなく繰り広げられる。

 「成長」というイベントで,カードは次々に補充されるが、どんなに強力な布陣を揃えても、「おもらし」や「事故」など、ささいな偶然やミスで帳消しになるのが、この闘いの恐ろしいところだ。そして、そのミスで落とした地位を奪還するには、ひどい手間か幸運がいる。

 昨日の敵は今日の友。今日の敵は明日の友。離合集散を繰り返し、考え得る限りの手を尽くし、脅してスカして買収懐柔、やっと手にした「友達」という仲間も、運悪く地雷を踏んでしまえば、「いじめ」なんていうイベントで皆敵に回る。運良く安住の地と、気の合う仲間を見つけても、そのグループ内で闘争がないなどということはない。より穏やかで水面下ではあるが、縮小再生産された闘争が、やはりそこでも行われているのだ。

 その闘争の内なる敵が、脆い精神だ。風船のように膨れあがって張り詰めたプライドは、大きいくせに薄っぺらくて中味もなくて、ささいな風で揺れ動き、トゲある一言で破裂する。

 あんな恐ろしい時代に戻りたいって言うやつは、きっと闘争を勝ち抜いた「勝ち組」の奴か、今、あの時以上にひどい目にあってる奴、それか、あの頃がそんなだったことを、忘れているかのどれかだろう。

 
 この闘争の中で、俺たちはまた、「自己」というキャラクターの確立も行わねばならない。一番の勝ち組は「ヒーロー」。男前でスポーツや勉強が出来て女の子にもモテる。まさに貴族階級。同じヒーローでも、「ダーティ・ヒーロー」というのもある。いわゆる「不良」だ。「学校」という体制に従わない、孤高の反逆者。

 これに次ぐのは「スペシャリスト」。ヒーローほどではないがスポーツや勉強が出来て、一目をおかれる。

 「愛嬌者」。まわりを楽しくさせ、盛り上げるムードメーカー。「参謀」。ヒーローの傍らで知恵を出し、集団を統括する。「覇王」。暴力と恐怖で集団を支配する。「マスコット」。周囲から愛され、愛玩的扱いを受ける。「みそっかす」。集団に所属はしているものの、それは憐れみと蔑視と、優越感から。「奴隷」。読んで字の如し。

 いろんな仮面をかぶり、時と場合に応じて使い分け、時には引かれたり、時には受け入れられたりを繰り返しながら、やがて自分なりの「必勝パターン」を見いだしていく。

 そして偶然と必然のすりあわせの中で、時間を経て、“キャラクター”は確立していく。それは「人格」と言うよりはむしろ「立ち位置」だ。集団の中のどこに自分を位置づけ、自分をどの程度の人間と見積もるか。収まりのいい場所を見つけ、そこに到るルートの発見法と踏破法を身につけたとき、“キャラクター”は完成する。ヒーローなのか、参謀なのか、愛嬌者なのか。自分がどの立場にいるのが一番楽かを理解し、こういうふるまいをすればその立場になれるという必勝パターンを手に入れたとき、人はその“キャラクター”になる。

 では、そのキャラクターや必勝パターンを見つけられなかったり、キャラクターを手に入れたはいいが、その立ち位置に不満がある者はどうするのか。答えは簡単だ。妄想に走るのである。

 マンガやアニメなどを見て主人公に自分を仮託し、刹那の同一性を得るものから、自分を「選ばれた戦士だ」と信じ込み、それに相応しい行動を取るものまで、その深さや形態は様々だ。けれどただ一つ変わらぬのは、それがその人にとって「かけがえのないもの」だ、ということだ。

 それは逃げなのかもしれない。それは現実逃避なのかもしれない。OK。でもそれがどうした。窓のない部屋では空気はよどみ、循環しない水槽の中では水は腐る。際限なく膨らませ続けた風船は割れるしかない。逃げることを許してもらえないのなら、残された手は、窓から飛び降りるくらいしか残っていないのだ。


 今にして思えば、なぜそんな愚かなことを、と思う振る舞いは山ほどある。今にして思えば、なんでそんなことを思い煩っていたのだろう、という悩みも山ほどある。

 けれど、その時の自分にとっては、それは世界を揺るがす大事件であり、自己を確立する為の、痛々しいまでに真摯な闘いだったのだ。

 田中ロミオの『AURA~魔竜院光牙最後の闘い~』は、そんな時代を思い出させてくれる作品だった。なにも知らず、なにも分からぬまま、ただ徒手空拳で、がむしゃらに世界と闘っていたあの頃を。その闘いで勝ち得た、色々なものを。


 あの頃に戻りたくはない。けれど、あの頃の自分は嫌いじゃない。


 願わくば、10年の後、今の自分を思い返して、そう言っている自分があらんことを。


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Posted by MAD at 03:28│Comments(0)感想。

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