気づくと、トニーは車を、ゲインズビルの方角へと走らせていた。合衆国の東海岸を貫くUS−27ハイウェイを走り、タンバとデイトナビーチを繋ぐI−4Wハイウェイに入る。途中のオーランドにあるウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートへ向かう家族連れの車を横目に見ながら、東行した車はデイトナビーチで一般道に降りた。
寂れた街と廃墟になったモーテルをくぐり抜け、ひたすら北へ向かって走り続ける。道に沿って、バカみたいに青い空と、負けず劣らずバカみたいに青い海が広がっていた。
愛車のフォード・エクスプローラーは大食いだ。次はレクサスかホンダにでも乗り換えよう。そんなことを思いつつ、2度目の給油を終えた時、トニーは一つの景色を認めて車を停めた。辺りはもう、淡い暮色の中に沈みつつあった。車を降りて小高い丘に登り、一抱えはありそうな岩に腰をかける。じんわりと滲んだ汗を拭きながら、トニーはじっと、道路の脇を見つめていた。
「Trick or Treat?」
ふいに、後ろからそんな声がした。驚いて振り向くと、そこにはカボチャのお面をかぶり、マントをつけた男が立っていた。強盗だろうか? トニーの脳裏を、そんな思いがかすめた。まずい。なに思うとなく車を走らせてきたので、財布にはカードしか入ってない。こんなところで車を盗られると、面倒だ。
「強盗じゃありませんよ」
と、心を見透かしたかのようにカボチャのお化けは言った。仮面の中で反響しているのか、くぐもった声だった。
「なにしてらっしゃるんです?」
「そちらこそ」
「今日はハロウィンですからね。こうやってお菓子をもらって歩いてるんですよ」
「こんなとこで、しかもその年で?」
「激しい競争の中で、最大限の利益を確保するには、他人がしないことをしなくちゃ」
そう言って男は、大きな腹を揺すって笑った。
「で、旦那は?」
「あそこを、見ていたんだ」
トニーの指さした方を見て、男は怪訝そうに首をかしげた。そこにはただの道しかなかった。
「親友がいてね」
と、トニーは、真っ赤な夕焼けに染まった景色を見ながら言った。
「あそこは、思い出の場所なんだ。二人で仕入れに行った時、あそこで車がオイル漏れしてね」
その時のことを思い出したのか、くつくつと笑いながら、話を繋ぐ。
「俺が慌ててたって、あいつだってたいがいだった」
「へえ。その親友さんは今どこに?」
「・・・死んだよ」
言って、トニーは視線を落した。
「もう7年になる。そして私はあいつを失ってまで育てた会社を、今日失った」
もう、なにもない。大きく首を振ったトニーの横に、かぼちゃのお化けが腰掛けた。
「失礼ですが、詳しくお聞きしてもよろしいですかね?」
「君に?」
「ええ。差し支えなければ」
「面白い話じゃないぞ?」
「かまいません」
ふむ。トニーは真っ白な髪をガリガリとやって、話し始めた。なんでこんな通りすがりのカボチャのお化けなんかに、こんなことを話しているのだろうと思いながら。
カリフォルニアは遠すぎる。それが、トニー・フランクリンとダン・モーガンの合い言葉だった。
フロリダのハイスクールで、二人はなんだか乗り切れない日々を送っていた。トニーはフットボール。ダンは弁論部。学生生活に不満はなかったし、卒業式のダンス・パーティに誘う相手に不自由してるわけではなかったが、どこか夢中になりきれない。そんな二人だった。
同級生のようにサーフィンに明け暮れ、ナンパに精を出したかったが、泳げなかった。ベトナムの反戦運動に精を出そうにも、ダンの父親は陸軍の大佐で、しかも戦争の愚を語っていた。声高に反戦を叫ぶには、二人は内情を知りすぎていた。個人であれば皆が反対のことでも、集団となると止められないことがある。世の中にはそんなことがあるのだ、と。
俺たちゃまさにフロリダだ、とダンが言った。そこそこ楽しくやってるが、しょせんカリフォルニアにはなれない。あれほど熱くもなれないし、夢も見れない。ホテル・カリフォルニアは二人に扉を開いてくれず、夢のカリフォルニアは夢のままだった。
カリフォルニアは、遠すぎる。
「まあ、けっこう楽しいけどね」
「だな」
そして二人は笑いあった。
高校を卒業して大学に進んだダンに、古着を売ろう、とトニーが持ちかけたのは20の時だ。ゲインズビルに、学生寮の寮監をやってるおじさんがいるんだ。月イチのバザーで、そこの学生が安く服を出してるんだってさ。それをお前の学校で売るんだ。残ったら、ジョージアやアラバマに持って行こうぜ。
「いいな」
「だろう?」
さっそく二人は商売に取りかかった。ひと夏のバイト代を握りしめ、トニーの親父から借りたシボレー・インパラでゲインズビルへ向かい、買えるだけの服を買いあさった。車いっぱいに積み込んだ古着は、瞬く間に売れた。フロリダ大の若者達の服も全てが気の利いたものばかりではなかったが、トニーは(自分でも驚くことに)中々の目利きのようだった。販売の折衝は、ダンがあたった。弁論部で鍛えた話術と演技はこれまた見事なもので、相手は自分が破格値で掘り出し物を手に入れたと思って帰るのが常だった。本当は、仕入れ値の2倍や3倍で売りつけられていたのに。2人はその金を元にまた仕入れにおもむき、それもまた飛ぶように売れた。
程なく商品はゲインズビルでの仕入れだけでは足りなくなり、ジャクソンビルやデイトナビーチにまで、二人の仕入れ先は伸びていった。中古とは言え、自分たちの車を手に入れたのも、その頃のことだ。なけなしの100ドルを頭金に手に入れたフォード・ファルコン・ワゴンは、“ファルコン”と呼ぶにはいささか鈍重だったけれども、「自分たちの」車があるってことは、それだけで格別な気分だった。
「今日はどこへ行く?」
「デイトナビーチ。ちびのウィルソンのいとこが、あそこでサーフ・ショップをやってるんだとさ。服と、いい小物があるらしいぜ?」
「へえ。・・・ビートルズなんてやめろよ。女の子じゃあるまいし。アメリカ人ならビーチボーイズだろ」
言って、助手席のダンがラジオのダイアルを回した。ダッシュボードのつまみを一杯にひねると、ラジオの中からデニス・ウィルソンの軽快なビートが、カリフォルニアの風とともに吹き付けてきた。
「やめろよ。これ聞くと夜に、決まって溺れてる夢見るんだ」
「ちっ。じゃあ、こいつだ」
「『悪魔を憐れむ歌』? そいつもブリティッシュじゃねえか! うちはフランス系なんだよ!」
「るせえなあ。じゃあ、悪魔つながりでこいつだ」
「・・・なんだコレ?」
「ムソルグスキーの『禿山の一夜』。万聖節特集だってさ」
「神よ、許したまえ」
大仰に目の前で十字を切ると、トニーはガリリとダイアルを回した。再びラジオは軽快なビートへと戻り、DJがビルボードの熱戦を伝えていた。
「なあ、トニー」
「なんだ?」
「店を出さないか?」
「いいね」
しばらく、沈黙が続いた。
「店の名前、どうする?」
「あ? そうだなあ」
トニーは小首をかしげると、ニヤリと笑って言った。
「『フロリダ40℃』ってどうだ?」
「摂氏かよ。このフランスかぶれが」
「ああ、涼しそうだろ? それに」
そう言ってトニーは、ダンと自分の胸を指してみせた。
「お前と、俺で、40だ」
「ああ、この前誕生日だっけ」
「どうだ?」
「いいね」
ダンは一呼吸おいて、また言った。
「いいね」
それで決まりだった。
『フロリダ40℃』は開店直後から、ファッションに興味のある人間の間で評判となり、半年後には知らなければモグリと見なされる存在になっていた。売上は年々右肩上がりとなり、3年目にはとなりの雑貨屋のスペースを買い取って、面積を倍にすることになった。ダンが大学を卒業するのを待って、5年目には2号店が出店された。フロリダ州の古着相場は今や『フロリダ40℃』の動向に左右されることとなり、供給の逼迫もあって、二人はオリジナル・ブランドの作製に乗り出すことを決めた。幾つかの詐欺やトラブルを乗り越え、小さな縫製工場がその傘下となり、今や株式会社となった『フロリダ40℃』の利益をさらに押し上げた。
社長としてブランドの統括と仕入れを担当するトニーと、共同経営者として経理とマーケティングを担当するダン。気の合う仲間を集めたのんきな集団が会社組織に変わり、創業の頃の仲間が次々と去っていった時にも、二人のタッグが揺らぐことはなかった。
二人の仲に危機が迫ったのは、ただ一度きりだった。ダンが「ガールフレンドなんだ」と照れくさそうにつれてきたステイシーという名の少女。そのはしばみ色の瞳に、トニーの心も奪われた。
幾度かのすれ違いや誤解や不幸な偶然の後、ステイシーはダンに、もう卒業式のダンス・パーティに一緒に行けなくなったことを告げた。その晩、3時間もの逡巡の後、トニーはダンの家の扉をノックした。
「やあ、色男(ベール・ギャラン)。哀れな寝取られ男(コキュ)を笑いに来たのかい?」
意外なことに、ダンは冷静だった。すまない、と口ごもるトニーの頭を上げさせると、ダンは一つため息をついて、その顔をぶん殴った。1発。2発。3発。4発。5発。その拳は容赦なく、トニーはその後、折れた奥歯を直すため大嫌いな歯医者に1年も通うハメになった。
ダンはうずくまったトニーを引き起こして言った。
「これで、貸し借りナシだ」
そして、水に濡らしたタオルを渡すと、こう続けた。
「俺は、お前だけには貸しも借りも作りたくないんだ」
ステイシーを幸せにしろよ。そう言って、ダンは扉を閉めた。トニーは仰向けになって、空を見上げた。降るような星空だった。頬は痛かったが、胸の奥は暖かかった。半年後、ステイシーは歌手の卵とどこかへ消えて、トニーは2年後、歯医者の助手と結婚した。介添人は、ダンが勤めた。
そして、20年の月日が流れた。
「トニー、見てくれよ!」
勢いよく扉を開け放って、ダンが入ってきた。もう何百回となく目にした光景だった。半白の髪を揺らして、トニーはダンの方へと向き直った。
「やれやれ。どうした?」
「見ろよこのトレーナー! スタンフォードの年代もんだぜ! 覚えてるか? 一度だけ、セント・オーガスティン行った時。ファルコンのシリンダーからオイルが漏れてよ。これで押さえたろ?」
ダンはそう言ってくつくつと笑った。
「あの時のお前の騒ぎッぷりったら!」
「ビュイックだよ」
「ん?」
「あの時はもうビュイック・スカイラークに買い換えてた」
「ファルコンだってば」
「スカイラークさ。賭けるか?」
「乗った。10ドルだ」
「100ドルでもいいぜ?」
ダンが、まじまじと見た。
「・・・やめとこう。お前がそんなこと言うなんて珍しい。今持ち合わせがないんだ。10ドルは後でいいかな?」
「いつでも」
トニーは唇を舌でしめらせた。なんの気なしに見えるようとりつくろいながら、口を開く。
「タラハッシーの出店の件だけど」
「ああ。この前言ったろ? ありゃあダメだ。ショッピングモールって業態は魅力だが、賃料も高すぎる」
「契約したんだ」
「・・・なんだって?」
ダンはまじまじとトニーを見た。聞き違いだったろうか?
「その件は断れと、この前言ったはずだ」
「勝負を賭ける時が、あるんだよ」
トニーは目をそらしながら言った。今がその時だ。これはチャンスなんだ。
「手を広げすぎない方がいいんだ」
ダンは、噛んで含めるように言った。
「うちみたいなブランドは、ニッチを目指すべきなんだ。溢れて、飽きられたらオシマイなんだ」
「大丈夫だ。絶対うまく行くよ」
「行きっこないね。ショッピングモールにゃ、ハイセンスなブランドなんか必要ないんだ。手頃で丈夫で安けりゃいい。売上は上がらないし、こっちのブランド価値は落ちる。双方にとって不幸な出会いさ。いいかい。激しい競争の中で最大限の利益を確保するには、他人がしないことをしなくちゃいけないんだ」
「もう、契約しちゃったんだ」
「取り消せ。違約金を払っても、傷は浅くて住む」
「取締役会も支持してくれてる」
つと、胸を突かれたように後ずさり、ダンは目を見開いた。
「細工は粒々ってわけか」
「聞いてくれ、ダン」
「悪いが、その気はないね。俺は降ろさせてもらう。このプロジェクトからも、この会社からも」
「ダン!」
「長いつきあいだったな。あばよ」
見たことのない表情を浮かべて、ダンは扉の向こうへ消えた。それが、トニー・フランクリンとダン・モーガンの交わした、最後の言葉となった。2年後、ダンが死んだことをトニーは新聞で知った。飲酒運転のあげく、ハイウェイで無理な追い越しを掛けて壁に激突した車の、巻き添えを食ったのだという。即死だったらしい。トニーは黙祷をすると、その日以来酒を断った。
タラハッシーの店は、大当たりを取った。売上は毎月記録を更新し、その年の経常利益は、前年をダブルスコアで上回った。その利益を元に工場が増設され、供給量は着実に増えていった。ダンの指摘した弱点にも、トニーなりの勝算はあった。『104F』と名づけたセカンドラインがそれだった。『フロリダ40℃』ほど先鋭的でなく、適度にオシャレで、適度に丈夫で、適度にお安い、お手頃商品。企画は見事図に当たり、『104F』の売上は2年で『フロリダ40℃』を上回るようになった。各地から出店要請が相次ぎ、たちまち店舗は10を超えた。フロリダ40℃・コーポレーションの取締役会は2つのブランドを束ねる持ち株会社の設立を決議し、満場一致でそのCEO(最高経営責任者)としてトニー・フランクリンを選出した。旧フロリダ40℃・コーポレーションの株式1株につき10株が割り当てられ、一方で増資により、取引銀行や投資家に、全株式の30%にあたる新株が発行された。その年、トニー・フランクリン氏には30万ドルの賞与が与えられた。
風向きが変わり始めたのは、タラハッシーへの出店から、早くも5年目の頃だった。近郊のショッピングモールに、GAPが出店したのだ。1968年、ドナルド・フィッシャーがカリフォルニア州サンフランシスコに創業したGAPは、「クリーン、オール・アメリカン、シンプル、グッド・デザイン」を基本コンセプトに、実用的でシンプルで親しみやすいアイテムを揃えて躍進していた。あの頃、あんなに遠く思えていたカリフォルニアが、向こうからやって来たのだ。製造から販売までを手がけるSPA(製造型小売業)という業態でファッション業界に旋風を巻き起こし、高い利益率とブランド力を併せ持った相手に、ようやく体制を整え始めたばかりの「104F」が敵うべくもなかった。売上は急速に落ち込んでいった。
だが、トニーは他の店舗は閉鎖しても、タラハッシーの店の閉鎖だけは頑として受け入れなかった。彼は決して認めようとしなかったが、タラハッシーの店の話が出るたびに、ダンの顔が浮かんでいたのは事実だった。程なくタラハッシーの店は赤字となり、他の店の、そしてフロリダ40℃ブランドの利益まで飲み込み始めた。
今まで利益を生んできたスパイラルは、逆転を始めると容赦がなかった。店舗が減って売上が下がると、仕入れ値が上がり、在庫は積み上がった。それがまた利益を圧迫し、別の店舗が閉鎖される。トニーはメキシコ工場への生産委託など様々な手を取ったが、焼け石に水だった。程なく、持ち株会社自体が赤字となり、債務超過に陥った。
「トニー・フランクリン氏のCEO解任動議を提出します」
緊急の取締役会が召集され、その提案を聞いた時、トニーはついに来るべきものが来たか、と思い、どこかホッとしている自分を感じていた。議長は創業の頃より自分の右腕として働いてくれ、今はブランド管理部門と広告戦略を担当している、アレックスという名の、ヒスパニック系の上級役員だった。後ろ盾となっているのは、その横に座るダグラスCFO(最高財務責任者)だろうか。主力銀行から派遣されてきた、小心者の小男だ。
「私はこの会社の株式を40%所有しているはずだが?」
銀行と投資会社の株式全てを集めても、自分の所有分には届かないはずだ。社員持株会も10%弱を握っているが、それには議決権がない。どうやって自分を追い出すのか。意趣返しと言うよりは、怪訝な気持ちでトニーは聞いた。
「・・・この緊急動議の提案者は、旧財務部長ダン・モーガン氏のご子息ロナルド氏です」
「ああ、なるほど」
フロリダ40℃の共同設立者であったダンの持っていた株式は、新株発行による希薄化を考慮に入れても、20%はあったはずだ。相続税対策に一部を売却していても、自分を蹴落とす程度は充分残っていたのだろう。
「これが、お前のお返しか? ダン」
「は?」
「いや、なんでもない。で、私が解任されたあとはどうなるのかな?」
「スウェーデンのある企業が、当社に興味を示しております」
「M&Aか。時代の流れだな。迷惑を掛けたな、諸君。私の解任に決を取る必要はない。本日この時をもって、私は退任するとしよう」
トニーは立ち上がり、一礼すると扉を開き、出て行った。人生そのものを費やした会社との別れにしては、いささか趣に欠けるな、などと埒もないことを考えながら。
「それで?」
とカボチャのお化けが言った。
「それだけだよ」
トニーはそう返した。
「かくして私は、親友と会社と、全てを失ったんだ」
「ふむ」
カボチャのお化けは、そう言って黙り込んだ。だだっ広いフロリダの大地を、乾いた風が走っていった。喉が渇いているのか、丘から吹き下ろした風は、まっすぐ海の方へと向かって行った。黒く染まった海の上には、無数の星がきらめき始めていた。
「・・・Trick or Treat?」
ややあって、カボチャのお化けがそう言った。
「Trick or Treat?」
「ん? 悪いね。今お菓子の持ち合わせはないんだ」
「そうですか。なら私は、あなたにイタズラをしなければなりません」
そう言って、カボチャのお化けは立ち上がった。
「ご存じですか? 幽霊は、土地の記憶なんですよ」
言いながら、懐に手を突っ込む。
「古代の中国じゃ、蜃気楼は海底のデカい貝が吐き出した幻だなんて言われてたそうですがね。それは当たらずとも遠からず。土地が見たことを思い出したり夢を見た時、幽霊ってのは現れるんですよ」
カボチャのお化けは懐から、大きなランタンを取り出した。それは懐に隠しておくには余りに大きく、しかも煌々と火が灯されていた。
「普段ならムリですがね。今宵はハロウィン。ワルプルギスの夜と並び、夜の力が最も強くなる日です。――ご覧なさい」
そう言うと、ジャック・オ・ランタンはその手を大きく振り、ランタンを天高く放り投げた。仮面の中で、なぜかニヤリと笑うのが見えた気がした。
大きな山なりを描いて、ランタンが飛ぶ。その軌跡を目で追っていたトニーは、あれ、と目を見開いた。軌跡がちょうど月に重なった瞬間、まるでそのきざはしに引っかけられたかのように、カツリとランタンが落下を止めたのだ。それだけではない。ランタンの中の光が、徐々に輝きを増していった。淡いオレンジ色からやがて黄色となり、ついで黄金色になったランタンの光は、気づけば、突き刺すようなあのフロリダの陽光となって世界に降りそそいでいた。
トニーは、思わず眩しさに目を閉じた。そして、目を開けて己を疑った。そこには、昼のフロリダの景色が広がっていた。それだけではない。シボレー・エルカミーノ。シボレー・シェビー?。マーキュリー・クーガー。そして、フォード・サンダーバード。行きかう車は全て、ピカピカに磨き上げられた、懐かしき60年代の車達だった。そして、その道の脇に、なにかトラブルを起こしたのか、一台の車が止まっていた。四角く平べったい外観と、押し出しの強いグリル。見まがうはずはない。空色の、ビュイック・スカイラーク。かつて自分が、いや自分たちが乗っていた車だった。
その車を、二人の青年が囲んでいた。ボンネットを開け、中をいじくっていた赤毛の青年が、頭を抱えて叫ぶのが聞こえた。
「うわ、オイル漏れてるぜ! シリンダーが割れてんじゃねえの!?」
「えええええ!? だからさっきのスタンドで見てもらおうって言ったじゃん!」
「嘘つけ! お前、大丈夫大丈夫って言ってたろうが!」
「どどどどうすんのさ!? 次のスタンドは20マイルは先だよ!? この車、まだまだローン残ってるのに!!」
「ととととりあえず、漏れてるとこふさごうぜ! タオル、タオル! あったこれだ! よいしょ!」
「ダン! それ売りもんの服だよ!」
「えええええ!?」
トニーの目に、涙が溢れた。それは、かつて過ごした時間。ありふれた、けれどかけがえのない思い出の一つだった。
「フォード・エクスプローラー。新車ですね。ローンは?」
不意に、後ろからそう問う声がした。トニーは慌てて涙を拭うと、30年の追憶から自分を引きはがした。
「いや、無い。一括で買ったんだ」
「家は、持ち家?」
「ん? ああ。息子達は家を出たからね。今じゃ妻と二人暮らしさ」
「そうですか」
ブルン、とエンジンがかかる音がした。オイルの漏れは食い止められたのだろう。二人の青年は互いを罵りながら、けれど底抜けの笑顔で車に飛び乗ると、猛烈なスピードで走り去っていった。
その先は分かっていた。二人は車をだましだまし運転し、なんとか近くのモーテル転がり込むのだ。そこのオーナーから工具を借りて、応急処置を終えて修理工場へと駆け込む。修理代は100ドルを超え、二人はセント・オーガスティンを「呪われた街」と呼んで、二度と仕入れに行くことはなかった。
再び、トニーの目を涙が襲った。両手で顔を覆い、嗚咽をこらえる彼に、背後からまた声がした。
「自分の車。自分の家。家族。財産。それだけ持ちながら、“なにもかも失った”ってのは、さすがにカトリックのフランス系でも、謙遜の美徳が過ぎるんじゃないかな」
耳元でささやくような声とともに、胸ポケットになにかがねじこまれる感触があった。
「こいつで、会社に電話しろよトニー・フランクリン」
くぐもった声が、今度はやけに明瞭に響いた。ひどく優しい声だった。そのイントネーションに懐かしいものを感じて、トニーは、はじかれたかのように顔を上げた。とっぷりと暮れた丘の中腹には、彼を除いて誰もいなかった。
呆然と辺りを見回し、不意にトニーは胸ポケットを探った。しわくちゃの1ドル札がキッカリ10枚、そこには収まっていた。
そして、半年後。トニー・フランクリンは買い換えた中古のフォード・トーラス・ワゴンに乗って、US−27ハイウェイを走っていた。あの後、会社に電話をすると、向こうはてんやわんやの大騒ぎ中だった。
「ボス!」
とアレックスが言った。
「どこに行ってたんです!? こっちじゃあなたの姿が見えないってんで、自殺したんじゃないかって大騒ぎだったんですよ!?」
「すまない。ちょっと考えたいことがあってね」
「まったく。奥さんも心配してらっしゃいましたよ! すぐに電話してあげて下さい!」
「ああ、もちろんだ。ところで、折り入って、頼みがあるんだ」
「なんです?」
「デイトナビーチのそばに、使ってない店舗があったろう? あれを、貸してもらえないかな? また、古着屋を始めようと思うんだ。ええと、知らないかな? 私のコレクション。けっこう評判がいいんだ。悪くない目利きだと言ってくれる人もいる。使用料はもちろん払う。手持ちはそんなにないんだが、私の持ち株をそのスウェーデンの会社とやらは、いくらかで引き取ってくれないだろうか? 10,000ドルくらいにはなると思うんだが」
しばらく沈黙が続き、トニーが値段を下げるべきだったろうかと思い始めた頃、向こうでアレックスの笑い声が爆発した。
「ひぃ腹が痛い。ボス、あなたは自分の会社とブランドを過小評価しすぎですよ! 私の見るところ、タラハッシーの店舗を閉めて、4、5軒スクラップ&ビルドすれば、この会社は持ち直すはずなんだ。その10倍どころか100倍でも払ってくれますよ!」
「・・・そうなのか」
「ええ。100倍までなら、私が買い取ってもいいですよ! ただし」
と、アレックスは声をひそめて言った。
「その儲け話に、私も乗せて下さるなら、ですがね」
トニーがその言葉の意味を理解するまで、数瞬かかった。
「・・・君は新会社でしかるべき地位を用意されてると思っていたが」
「ええ。されてますよ。『フロリダ40℃』だけでなく、アメリカ全土での宣伝担当重役のポストを用意して下さるそうです。ああ、GAPからも声がかかってますね。引っこ抜きたいそうです」
「じゃあ、なぜ?」
「スウェーデンじゃ40℃なんて温度になりっこないでしょう? 俺は、寒いのは苦手なんです」
「じゃあ、GAPは?」
「よして下さいよ。俺は生粋のフロリダっ子ですよ? サンフランシスコのへなちょこ野郎なんぞに、頭なんか下げられますかッてんだ」
電話の向こうで、アレックスがウインクしてるのが見えるようだった。30年前、まだ顔中にそばかすを散らしたあどけない顔で「ここで働きたいんです」と店を訪ねてきた青年は、Tシャツとジーンズに身を包み、黒髪を背中まで伸ばしていたあの頃と、着ている服や立場が代わりこそすれ、その中味は変わっていなかった。なるほど。トニーはカボチャのお化けを思い出しながら、心の奥で呟いた。君の言う通りだ。なにもかも失ったどころか、こんなにも多くのものを俺は持っている。
「ありがとう」
「どういたしまして。――そうそう」
慣れない雰囲気に照れたのか、おどけた声でアレックスは話題を変えた。
「モーガンさんとこのガキンチョからの伝言です。ええと、この度は大変失礼しました。ぜひ一度当家においで頂けないでしょうか、とのことです」
翌日、トニーはさっそくモーガン家を訪ねた。10年振りに会ったリトル・モーガンを見て、トニーは思わず目を疑った。30年前、出会った頃のダン・モーガンがそこにいた。
「この度は大変失礼しました」
会うや否や、ロナルド・モーガンはそう言って頭を下げた。
「父の口癖だったんです。『俺が戻らないとトニーはタラハッシーの店を閉められない。だから、この株は絶対手放さない。店の調子が悪くなったら、こいつを抱えてさっそうと登場。それ見たことかとあいつに説教をくれてやらにゃならん。それは、俺にしか出来んのだ』、と」
トニーはじっとモーガンの顔を見ていた。
「ですが、あいにく父は死んでしまった。分かって下さい。僕にはああするしかなかったんです」
トニーはゆっくり頷いて言った。
「分かっていたよ」
そして親友の息子の手を押し頂き、もう一度言った。
「分かっていたよ」
ロナルド・モーガンは、老人の涙が枯れるまで、黙ってそこに立っていた。
トニーは1度目の給油を終わらせ、イグニッション・キーをひねった。うなるような声を上げて、エンジンが目を覚ます。
デイトナ・ビーチの店は、間もなくオープンの予定だった。アレックスの巧みな宣伝により、前評判は上々。この調子だと、オープンからしばらくは休みが取れそうになかった。そこで無理を言って、1日だけ休みをもらったのだ。前の仕事の引き継ぎや新店の準備で、ここ半年、1日も休んでいない。スタッフに頼み込むと、それを知っていた皆は快諾してくれた。
トニーは胸ポケットから一枚の色あせた写真を撮りだすと、誰に言うとでもなく、呟いた。
「あの時、幽霊は土地の記憶だって言ってたけど、ありゃ嘘だろう? だって」
セピア色に変色した写真へと目を落す。あのあと、アルバムをひっくり返して見つけた写真だ。そこにはどこかの自動車工場を背景に、肩を組む二人の青年がいた。オイルにべっとり染まったスタンフォードのトレーナーを、旗のように誇らしげにひらめかせながら、二人は車に腰掛けていた。車は、薄汚れた中古の、フォード・ファルコン・ワゴン。幽霊が土地の記憶なら、違う車に乗っていることはあるまい。
「俺に貸しを作りたくなかったのか? あいにくだな、ダン。とっくに借りは出来てたんだ。賭けはお前の勝ちだったんだよ」
トニーは、大事そうに写真を、また胸ポケットへしまった。車がしずしずと走り出し、後部座席に積んだ花束を揺らした。20ドル分の花束だった。
――さあ、ダン・モーガン。今日はお前の墓の前で、徹底的に謝らせてもらうぞ。化けて出ようがなにしようが、決して止めたりなんぞしてやらない。なんてったって、こちとら10年分の利子をつけて、賭け金と恩とを返さにゃならんのだからな。
iPodを繋いだカーステレオから、音楽が流れ始めた。ビートルズ。ビーチボーイズ。ローリング・ストーンズ。そして、ムソルグスキー。
暑くなりそうだな。口笛を吹きながら、トニーは思った。まさか40℃にはならないだろうけど。
空は青く、道はどこまでも続いていた。トニーは車のアクセルを踏み込んだ。トーラスが、手荒な扱いに抗議のきしみをあげた。
「カリフォルニアなんてクソくらえだ!」
開け放った窓からフロリダの風が吹き込み、幾つもの花弁が舞った。車はトニーと10年の時間を乗せて、ハイウェイの向こうへと消えていった。
(了)